戦国武将録〜あ行〜
戻る
 安芸国虎 ?〜永禄12(1569)
 安芸家は土佐の七雄のひとつで、同じ七雄の長宗我部家とは領土が隣り合っていた。国虎は安芸家当主・元泰の嫡男として誕生した。幼くして父・元泰が死亡し、安芸元盛(元綱)、土与松女の後見で家督を継承した。
 永禄5(1562)年、長宗我部元親は七雄のひとつ・本山茂辰の朝倉城を攻め、翌年陥落させた。国虎はこの隙を突いて長宗我部家の岡豊城を攻撃するも吉田重俊の奇襲により敗走した。この直後、一条兼定の斡旋により和睦している。
 永禄11(1568)年に本山茂辰を降した長宗我部元親は翌年4月、同盟締結のため岡豊城へ来るよう国虎に要求した。国虎はこの要求を一蹴した。果たして元親は同年7月、兵力7000で安芸領内に進攻した。これに対し国虎は支城の穴内城、新庄城の守りを固めた。しかし、長宗我部軍のうち兵力5000に正面より猛攻をかけられ、2つの支城はひとたまりもなく落ち、安芸城下に迫られた。更に、元親自らが率いる別働隊も安芸城背後に迫り、国虎は安芸城に封じ込められた。安芸方の敗色が濃厚になると、元親は横山紀伊、岡林将監、専光寺右馬允、小川新左衛門、小谷左近右衛門ら内応者を作って案内させ、城の搦め手より総攻撃をかけた。また、城中では食糧が尽き、内応した武将により井戸には毒が入れられた。安芸方に余力はなく遂に篭城24日目の8月11日、陥落した。国虎は黒岩越前に命じて妻(一条兼定の妹あるいは一条泰政の娘とされる)を一条家に送り返し、長男・千寿丸、次男・鉄之助(三郎左衛門)を阿波に逃れさせた後、城兵の助命を条件に老臣・有沢岩見とともに浄貞寺で自害した。

 浅井亮政 ?〜天文11(1542)
 亮政は浅井分家の直種の子で本家・直政の女婿となって家督を継いだと考えられる。浅井家は北近江の守護・京極家の一家臣で、亮政は京極高清に仕えた。
 大永3(1523)年、高清は京極家の家督を2人の子のどちらに譲るべきかを協議するため家臣団を集めた。この会議では当時権勢を誇っていた守護代・上坂信光が弟・高吉を推したため、継承者はあっさり決まった。(ちなみに、高吉の子・高次は亮政の曾孫を娶っている。) しかし、京極家臣団には上坂信光を快く思わない者が多く、京極家臣の浅見貞則を中心とする国人領主たちは、兄・高延を擁立して京極高清、上坂信光と敵対した。このとき、亮政も国人領主の一人として浅見貞則に加担した。先制攻撃をかけたのは上坂信光だったが、国人一揆が反撃に転じたため信光は今浜城まで退き、そこで戦いとなった。信光は勢いに乗る国人一揆の攻撃を支えることができず、城を捨てて逃亡した。
 今浜城の戦い後、浅見貞則が権力を握り専横を極めたため、今度は貞則に対する不満が高まりつつあった。これを見た亮政は、貞則に不満を持つ国人領主たちを糾合し、大永5(1525)年、貞則を倒すことに成功した。しかし間もなく南近江の六角定頼の攻撃を受け、窮地に立たされた。亮政はこの難局を乗り切るため越前の朝倉孝景を頼った。孝景も一向一揆と交戦する関係上、浅井家を敵にまわしたくは無かったため、これを受けた。亮政は朝倉教景の援助を受けたが、戦後出奔した。尚、亮政はこの後も朝倉家に度々援助を受けている。
 翌大永6(1526)年、亮政は復帰し、享禄元(1528)年8月、上坂信光が京極高吉を擁して侵攻して来ると、京極高延に従いこれを内保河原で破った。享禄4(1531)年4月には、細川晴元の要請に応じ箕浦表で六角定頼と戦うが敗れた。
 天文3(1534)年8月20日、亮政は小谷城に京極高清、高弥父子を招いて饗応した。これによって完全に北近江の実権を握った亮政は自ら知行安堵状の発行を行い、掟を定めるようになった。天文4(1535)年正月、六角家に寝返った京極家臣・多賀貞隆を京極高延が討とうとして敗北したため、亮政は六角定頼の攻撃を受けた。天文7(1538)年9月にも六角家と海津で戦い敗れている。天文10(1541)年、実権を握る亮政を煙たく感じていた高延が挙兵し、その戦争中の天文11(1542)年正月6日、亮政は急死した。
 その後、亮政の子・久政は六角家に臣従し、孫・長政の代に独立して信長と結ぶが、大恩ある朝倉家との関係を清算できず3代で滅んだ。

 一条房家 文明7(1475)〜天文8(1539)
 一条房家は、近代古典研究発展の礎を築き関白をも勤めた一条兼良の孫にあたる。
 兼良の嫡子で房家の父である教房も関白となったが、応仁の乱の勃発に伴い奈良の大乗院へ避難し、更に応仁2(1468)年10月土佐幡多荘回復のために中村に下向した。教房は中村館に居を構え、京都を模した都市建設を行った。中村では大文字の送り火も催され、小京都として発展した。それと同時に一条家は公卿から戦国大名に転じていったのである。
 房家は当初上洛して仏門に入る予定であったが、父・教房が死に、何らかの理由で上京が中止となり土佐一条家を継承することになった。
 土佐一条家の基盤は房家の代に築かれ、全盛期を現出したのも房家であった。房家は周辺諸豪族を屈服させ、家臣団へと編制していった。
 また、永正5(1508)年に長宗我部兼序が本山・吉良・大平連合軍によって居城・岡豊城を攻められ自刃すると、その嫡子国親を庇護した。国親が房家の庇護下にあったとき、房家が「高楼から飛び降りたら家名を再興させてやる」と言うと国親は本気で飛び降りようとしたという逸話が残っている。
 既に明応3(1494)年に正五位下左近衛少将に昇っていた房家は、永正6(1509)年に従四位上、永正7(1510)年に従三位、永正8(1511)年に右近中将、永正10(1513)年に権中納言と次々に昇進し、永正13(1516)年には上洛して権大納言に任じられた。また、一条本家に子・房通を入嗣させている。
 そして永正15(1518)年、房家は長宗我部の所領を分配占領していた諸豪族を説得し、本領三千貫を取り返し国親に与えた。
 その後も、永正17(1520)年に正三位、大永元(1521)年に従二位、大永6(1526)年に正二位と昇進を重ねた房家は、天文8(1539)12月13日死去した。土佐一条家は房家の曾孫の兼定のとき、長宗我部家に恩を仇で返される形で滅ぼされた。

 今川氏親 文明5(1473)〜大永6(1526)
 今川義忠の嫡子で幼名は竜王丸。母は義忠の正室・北川殿(伊勢早雲の姉妹)である。
 応仁の乱が勃発すると、父・義忠は東軍の細川勝元につき、西軍の山名宗全についた遠江守護・斯波氏と戦った。文明7(1475)年春、遠江の国人衆・横地四郎兵衛、勝間田修理亮らが西軍につくと、義忠は久野佐渡守、奥山民部少輔、杉森外記、三浦次郎左衛門、岡部五郎兵衛らを率い敵城を攻略した。しかし凱旋の途上、流れ矢に当たり討死してしまったのである。
 このとき竜王丸はわずか6歳であったため、義忠の従兄弟・小鹿範満が今川家の家督簒奪に乗り出した。こうして今川家は竜王丸支持派と、範満支持派に分裂したのである。
 範満が駿府館を占拠したため、竜王丸は伯父・伊勢長氏(早雲)の指示で母・北川殿とともに駿河志太郡小河郷の小川法栄のもとへ避難した。この間に長氏は扇谷上杉家の威を借り、竜王丸が正嫡であることと、範満が竜王丸成人までの家督代行であることを範満に認めさせ、一応の決着をみた。しかし竜王丸が17歳になっても範満は家督を返さなかったため、長氏は駿府館の範満を攻め滅ぼし、竜王丸に家督を継承させた。そして、当主となった竜王丸は氏親と名乗ったのである。
 氏親は遠江守護・斯波氏、信濃守護・小笠原氏と戦って撃破し、永正3(1506)年からは長氏を三河へ侵攻させた。この侵攻作戦は失敗に終わったが、同年7月には遠江守護に任じられ、永正14(1517)年8月には引馬城を陥れ遠江一国を平定した。
 また、氏親は大永4(1524)年領内で検地を行い、大永6(1526)年には分国法・今川仮名目録33ヶ条を制定し、戦国大名今川氏の基礎を固めた。同年6月氏親は没したが、14歳の嫡子・氏輝への家督相続は円滑に行われている。

 宇喜田能家 ?〜天文3(1534)
 宇喜田久家の子。能家は備前守護代・浦上家に3代に渡って仕えた。備前の守護は赤松家で、浦上家はその家臣である。
 明応6(1497)年、浦上家当主則宗の嫡男・宗助は松田元勝の支城・富山城を攻めたが、敗れて逆に口山城に包囲された。このとき能家は奇抜な策略で宗助を救出した。明応8(1499)年、浦上則宗が一族の浦上村国に敗れたときは、則宗の家臣に村国につく愚を説き離反を未然に防いだ。
 能家は文亀2(1502)年、矢津峠で金川城主・松田元勝と戦い、翌年にも牧石河原で戦って破っている。
 文亀2(1502)年に浦上家を継いだ村宗は、守護・赤松義村と不和であり、永正15(1518)年、居城三石城を攻められた。主家の攻撃に恐れをなした者は逃亡したが、能家はこの者たちを説得し兵の流出を最小限に食い止めた。その結果、村宗は義村の撃退に成功した。翌年、村宗の弟で香登城主の浦上宗久が義村と結び謀反を企てたが、この異変にいち早く気付いた能家は村宗の応援で宗久を追放し、香登城を預かった。永正17(1520)年、三石城が容易に落ちないと見た義村は、美作の浦上方の諸城を攻撃した。能家は僅かな兵で飯岡原において義村の大軍と戦い、勝利を得た。
 大永2(1522)年、村宗に追放されていた浦上村国、小寺藤兵衛が播磨に戻ったため、村宗は翌年播磨に兵を送った。能家も参戦したが、この戦いで次男を殺された能家は常ならぬ奮戦を見せ、勝利した。この奮戦を聞いた管領・細川高国は名馬と名釜を能家に送っている。
 能家は村宗が細川晴元、三好元長と戦い討死した後、砥石城に隠退し、薙髪して常玖と号した。しかし天文3(1534)年、自らの浦上家中での権力拡大を図る島村盛実(貫阿弥)に攻められ、自害した。

 大関高増 大永7(1527)〜慶長3(1598)
 那須七党の一つである大田原家当主の資清は、同じく那須七党の一つである大関宗増の讒言によって那須家を追放された。しかし24年後、資清は宇都宮家の助力を得て宗増の子・増次を奇襲により討ち取り、長男を宗増の養子として大関家を乗っ取ることに成功した。このとき大関家当主となった資清の長男が大関高増である。また、資清は那須七党の福原家にも次男・資孝を送り込んでいる。
 天文20(1551)年、那須家当主・高資が那須七党の千本資俊に討たれると高増は、高資の弟で自らの甥に当たる那須資胤を当主に立てることに成功した。永禄3(1560)年、父・資清の死で箍が外れた高増は、姉婿の佐久山義隆を殺害した。
 甥を那須家当主とし、邪魔者を次々に殺害した高増は絶頂にあったが、甥・資胤が反抗的な態度をとり出したため、2人の弟(福原資孝・大田原綱清)とともに佐竹義重に内通した。永禄9(1566)年、高増は義重の援軍を得て資胤を攻め、翌年、降伏させた。勝利を収めた義重は資胤を隠居させ、弟・義尚(那須資綱)を那須家当主に据えた。高増はそれと同時に隠居を命じられた。ちなみに、佐竹義尚は間もなく那須家を追放され、資胤の子・資晴が当主となっている。
 一度は義重に従い隠居した高増だったが、北条家の佐竹家に対する攻撃が激化すると義重を裏切った。那須家に戻った高増は当主・資晴を操って、那須七党の伊王野家と蘆野家を取り込み、千本資俊・資政父子を殺害して七党をまとめあげた。
 天正18(1590)年、秀吉は小田原征伐に当たって諸大名に参陣を要請した。高増は資晴に秀吉への恭順を求めたが、資晴は応じなかった。そこで高増は資晴を見捨て、三弟・大田原綱清とともに秀吉の下に走り所領を安堵された。尚、資晴の子・資景は5000石を受けている。高増は慶長3(1598)年没するが、跡を継いだ資増は家康に所領を安堵され黒羽藩初代藩主となった。

戻る