安芸家は土佐の七雄のひとつで、同じ七雄の長宗我部家とは領土が隣り合っていた。国虎は安芸家当主・元泰の嫡男として誕生した。幼くして父・元泰が死亡し、安芸元盛(元綱)、土与松女の後見で家督を継承した。
永禄5(1562)年、長宗我部元親は七雄のひとつ・本山茂辰の朝倉城を攻め、翌年陥落させた。国虎はこの隙を突いて長宗我部家の岡豊城を攻撃するも吉田重俊の奇襲により敗走した。この直後、一条兼定の斡旋により和睦している。
永禄11(1568)年に本山茂辰を降した長宗我部元親は翌年4月、同盟締結のため岡豊城へ来るよう国虎に要求した。国虎はこの要求を一蹴した。果たして元親は同年7月、兵力7000で安芸領内に進攻した。これに対し国虎は支城の穴内城、新庄城の守りを固めた。しかし、長宗我部軍のうち兵力5000に正面より猛攻をかけられ、2つの支城はひとたまりもなく落ち、安芸城下に迫られた。更に、元親自らが率いる別働隊も安芸城背後に迫り、国虎は安芸城に封じ込められた。安芸方の敗色が濃厚になると、元親は横山紀伊、岡林将監、専光寺右馬允、小川新左衛門、小谷左近右衛門ら内応者を作って案内させ、城の搦め手より総攻撃をかけた。また、城中では食糧が尽き、内応した武将により井戸には毒が入れられた。安芸方に余力はなく遂に篭城24日目の8月11日、陥落した。国虎は黒岩越前に命じて妻(一条兼定の妹あるいは一条泰政の娘とされる)を一条家に送り返し、長男・千寿丸、次男・鉄之助(三郎左衛門)を阿波に逃れさせた後、城兵の助命を条件に老臣・有沢岩見とともに浄貞寺で自害した。
|