戦国武将録〜か行〜
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 蠣崎義広 生没年不詳
 長禄元(1457)年、義広の祖父・武田信広はコシャマインの乱を鎮圧し、蠣崎家を継いだ。しかし、その後もアイヌ民族との戦いは続いた。
 大永元(1521)年に父・光広の跡を継いだ義広もアイヌとの戦いに明け暮れた。大永5(1525)年には東西のアイヌが一斉に蜂起し、和人は皆、徳山(松前)と上ノ国に逃れている。
 享禄2(1529)年にはアイヌ西部の酋長・タナケシが蜂起し、瀬田内館を陥れ、勝山館に迫った。義広は応戦したが、敗色が濃厚となったため、財宝を館の前に差し出して和睦を申し込んだ。しかし義広は、それに応じて財宝を回収しようとしたタナケシを射殺し、館から討って出たため、アイヌ勢を潰走させることができたのであった。
 更に天文5(1536)年にはタナケシの女婿・タリコナが蜂起し、やはり義広は勝山館に追い詰められたが、和睦と偽りタリコナを謀殺して乱は鎮定された。
 また、20人以上の子に恵まれた義広は他家との関係を強化し、蠣崎家による蝦夷支配を確かなものとしていった。そして、子の季広はアイヌと和睦を結んで争いを終結させたのである。

 糟屋武則 生没年不詳
 姓は加須屋とも書き、諱は数正、宗重、真安、宗孝、真雄ともいう。播磨出身で本姓は志村だが、幼少期に孤児となり糟屋友政に養育された。別所長治に仕えていたが、天正6(1578)年に小寺官兵衛を通じて秀吉に仕えた。
 賤ヶ岳の戦いでは宿屋七左衛門を討ち取る功をあげ、七本槍のひとりに数えられた。この功で播州賀古郡内に二千石、河州河内郡内に千石の合計三千石を賜っている。小牧の戦いにも従軍し、天正14(1586)には従五位下内膳正に叙された。九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵にも従い、一万三千石を領した。
 関ヶ原の戦いでは七本槍中ただひとり西軍に属し、戦後家禄を没収された。幕府旗本にも糟屋家があるが、武則の系であるかどうかは定かではない。

 片桐且元 弘治2(1556)〜元和元(1615)
 元は浅井家臣であり、父・真貞は小谷城の麓にある須賀谷要害を守っていた。且元は浅井家滅亡時に今浜城へ入った秀吉に仕えた。
 賤ヶ岳の戦いでは七本槍のひとりに数えられる武功をあげ、三千石を賜った。その後、九州征伐、小田原征伐、文禄の役にも参陣した。
 また、且元は合戦のみならず政治面でも諸国の検地奉行を務めるなどの活躍を見せた。そして、その行政能力を高く買った秀吉は晩年、且元に嗣子・秀頼の後見役を任せたのである。
 関ヶ原の戦いの後は家康から信認され、慶長6(1601)年には大和滝田に加増の上、転封された。しかし且元は、家康が征夷大将軍に就任し豊臣、徳川の主従が逆転した後も、秀頼への忠誠を忘れず大阪城に参勤し続けた。且元は幕府との折衝にも当たり、事あるごとに難儀した。
 だが慶長19(1614)年、幕府のふっかけてきた方広寺鐘銘問題を大坂に伝えると淀殿の不満が高まり、且元は大坂城を退去せざるを得なくなる。その後、家康の庇護を受けた且元は大坂の陣では攻め手に加わり、四万石に加増され、秀頼切腹の20日後に死去した。自害とも考えられる。

 加藤清正 永禄5(1562)〜慶長16(1611)
 幼名は虎之助。秀吉の従姉妹の子にあたることから、5歳のとき近江長浜の秀吉に預けられ、子飼いの武将となった。天正8(1580)年、播磨に百二十石を得、翌年には鳥取城の戦いで初陣を飾った。
 天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いでは柴田方の山路将監を討ち取り、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた。この功で従五位下主計頭に任ぜられ、三千石の加増を受けた。その後も小牧・長久手の戦いや九州征伐で戦功を重ねた清正は、佐々成政の自刃後に肥後半国十九万五千石を得た。このとき、残り半国は小西行長が拝領した。
 文禄の役で清正と行長は先鋒を務めた。清正は行長と馬が合わず、勝手に軍を進め、自らの活躍を秀吉に報告した。しかし、軍監の石田三成は清正の軍令違反を事細かく報告したため、清正は帰国後に蟄居を命じられてしまった。だが伏見城が地震で倒壊したとき、清正は逸早く秀吉の下に参じたため蟄居を解かれ、「地震加藤」の異名をとって名誉挽回に成功した。また、慶長の役では蔚山籠城戦で勇名を馳せている。この二度にわたる朝鮮出兵で、清正の三成、行長に対する恨みは一層深まったのである。
 そして関ヶ原の戦いに際しては、三成、行長との対立関係から東軍に与したが、戦闘に関しては九州で小西領に攻め込む程度に止まった。戦後、小西行長の所領を併せて五十四万石の大大名となり、熊本城を築いた。後、子・忠広は改易され、細川忠利が肥後熊本の藩主となった。

 加藤嘉明 永禄6(1563)〜寛永8(1631)
 永禄6(1563)年、三河に生まれた。幼名は孫六。父・教明とともに近江の羽柴秀吉の配下となり、その養子・秀勝(信長の四男)の小姓として召抱えられた。天正4(1576)年、秀吉直属の家臣となり、天正6(1578)年の三木城攻めに参加した。
 天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いでは浅井則政を討ち取る功をあげ、賤ヶ岳七本槍の一人となった。また、この功で所領三千石を賜っている。天正13(1585)年からは羽柴軍団の水軍の統率を任され、翌年11月には淡路一万五千石を加増され、志賀城主となった。
 文禄の役では一柳直盛、藤堂高虎とともに舟奉行となり、李舜臣との海戦で大いに苦戦したが、文禄3(1594)年に一千七百石加増の後、文禄4(1595)年7月に伊予松前六万石に転封となった。
 慶長の役では、唐島の戦いで藤堂高虎、脇坂安治とともに朱元均の水軍を破り、また、蔚山城の加藤清正を救援した。
 秀吉死後は家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍につき岐阜城攻めにも参加した。戦後、伊予松前に二十万石を領し、慶長8(1603)年には松山城を築城した。
 大坂冬の陣では江戸の留守居となったが、夏の陣では自ら参陣している。元和5(1619)年、福島正則転封の際は正則の挙兵を警戒しつつ広島城を接収した。以降もよく幕府に仕え、家光の鎧始めの儀を務めるなどし、寛永4(1627)年2月には会津四十万石に転封されている。

 鹿子木親員 ?〜天文18(1549)
 鹿子木氏は代々菊池氏の重臣であり、親員はその第10代当主である。戦国時代になって、菊池家は第22代当主・能運の死去により宗家が断絶した。このため同族から第23代政隆、阿蘇家から第24代武経、詫摩家から第25代武包と次々に当主が立てられたが皆失脚したため、大友義鑑の弟・重治が迎えられ第26代義武となった。
 隈本に入って来た義武を迎えた親員は、田島重賢とともに菊地家の老臣として義武を支えた。但し、義武は大友家出身であるがゆえ、大友義鑑の意向は無視できなかった。
 この頃、親員は茶臼山南麓に隈本城を築城し本拠を移している。尚、この城は後年加藤清正が修築した新城に対して古城と呼ばれる。
 親員は菊池家臣として様々な実績を上げている。永正13(1516)年に阿蘇山と彦山の争いを仲介し、後相良家と名和家の争いも仲介している。また、親員は天文5(1536)年に出家し、寂心と号した。
 大友義鑑と菊池義武は兄弟でありながら不和であった。そして、両者の対立が決定的になると親員は菊池方の不利を悟り、大友方につき義武と戦った。親員はこの姿勢を生涯貫いたが、子・鎮有は義武に加担して没落した。
 親員は文事にも関心が深く、和歌や謡曲を作ったほか、三条西実隆から『源氏物語』を購入するなどしている。

 隈部親永 ?〜天正16(1588)
 隈部氏は代々菊池氏に仕え、城、赤星と並ぶ菊池三家老のひとつであった。
 菊池家は第22代当主・能運の死去により宗家が断絶した後、政隆、武経、武包と当主が転々とし、大友家から義武が立てられて一応落ち着いた。
 しかし天文19(1550)年、菊池義武は兄・大友義鑑に対して反乱を起こし鎮圧された。このとき、隈部親永は山鹿郡水野に居城していたが、同じく三家老のひとつである赤星親家は乱鎮圧に功があったとして菊池家の本城・隈府城を与えられた。その後、領地問題から赤星親家と対立した親永は永禄2(1559)年、親家に猿返城を攻撃されたが城を出て合瀬川において親家を討ち破った。さらに親永は龍造寺隆信の援助を受けて、親家の子・統家が守る隈府城を攻め統家を追放した。以後、隈府城を本拠としている。また、三家老のひとつである城親冬が城村城から隈本城に移った後、嫡子・親安を城村城に入れ、永野城にも一族を入れた。
 天正13(1585)年、島津氏が肥後に侵攻して来たが、難攻不落で鳴る隈部氏の城砦群は一年余の籠城で一城も落ちず、島津義久は親永と和議を結んだ。
 九州征伐後、肥後国人衆は本領以外没収となり、親永の所領は他の国人衆同様半分以下とされた。そして、肥後の統治を任されたのは佐々成政であった。
 しかし、佐々成政が検地を実施すると親永ら国人衆はこれに反対して挙兵した。この一揆は、隈部親永を頭として肥後全域に広がる大規模なものであった。成政は早速5000の兵で隈部親永の隈府城を攻めた。隈府城を支えきれなかった親永は嫡子・親安の守る城村城へ逃げ込み、1万5000人で籠城した。成政は城村城攻めを開始したが、その隙に甲斐親英、菊池武国、赤星氏、城氏らが率いる3万余の国人衆が成政の隈本城を囲んだため、成政は隈本城に戻り一揆軍の一部を内応させて撃退した。しかし、城村城はその後も成政の猛攻に耐え、9か月もの籠城となった。この状況を知った秀吉は成政を尼崎に呼びつけ、天正16(1588)年5月切腹を命じた。さらに秀吉は肥後近隣の黒田、立花、毛利、島津など諸大名に動員令を発し一揆鎮圧を命じた。そして大軍を受けた一揆勢に黒田孝高が和議を申し入れて来たため、一揆軍は開城し、親永は立花氏に、親安は毛利氏に預けられた。その後、親永と親安は切腹を命じられている。

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