佐竹家第14代当主義治の子で佐竹家中興の祖とされる。父・義治の死亡により幼くして第15代当主となった。佐竹氏は12代義人の頃から同族の山入氏と争っており、13代義俊、14代義治は16年間もの間、太田城を追われていたこともある。
しかし、義舜は舅・岩城常隆の仲介で山入氏義と和睦することに成功した。
ところが平穏は長くは続かなかった。山入義藤、氏義父子が大軍を率いて居城・太田城に攻めてきたのである。義舜はこれを支えることができず、母の実家である大山氏のもとへ逃れ、大山城に入ったが、後により強固な孫根城へ移った。
明応9(1500)年には、山入勢が孫根城を攻め、落城させた。そのため義舜は、北の西金砂城に逃れ東金砂城の山入勢と戦った。永正元(1504)年、岩城常隆の援軍を得た義舜は太田城を取り戻し、永正3(1506)年には遂に山入城を陥落させ山入氏を滅ぼした。こうして、1世紀もの長きに渡って続いた山入氏との抗争に終止符が打たれたのである。
その後、義舜は佐竹家法二十三条を制定し、一門の結束の強化を図っている。永正14(1517)年、若年の嫡男・義篤を残して義舜は没したが、弟・義信、弟・政義、子・義里をはじめとする佐竹一門は義篤をよく支えた。この三家はそれぞれ本城との位置関係から北家、東家、南家と呼ばれ、戦国期を通じてその結束を保ち続けた。
┏永義(今宮)━光義━━━━┳義通━━━━義賢
┏周義(今宮)┃ ┗義僚━━━━宣貞
義治╋義舜━━━╋義篤━━━┳義昭━━━━┳義重━━━┳義宣
┣義武(久米)┣義元(小場)┗義昌(小野崎)┃ ┣義広(蘆名)
┃ ┣義里(南家) ┃ ┣貞隆(岩城)
┃ ┗義康(古内) ┃ ┣宣家(多賀谷)
┃ ┃ ┗義直(北家)
┃ ┣義尚(南家)━義種
┃ ┗義宗(小場)┳義成
┃ ┣義辰(石塚)
┃ ┏義住 ┗宣忠
┣義信(北家)┻義廉━━━━義斯━━━━━義憲━━━━義盛(小野岡)
┗政義(東家)━義堅━━━┳義喬 ┏義賢━━━━義直
┣義忠(酒出) ┣宣宗(伊達)
┗義久━━━━┻宣政(小野崎)━義長
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