戦国武将録〜さ行、た行〜
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 斎藤利三 天文3(1534)〜天正10(1582)
 斎藤利賢の子。母は明智光秀の妹とする説もある。はじめ斎藤義龍に仕えていたが、後に稲葉一鉄(良通)に属した。一鉄が織田氏に寝返ったときは利三もそれに従った。
 天正8(1580)年、一鉄を嫌って光秀の家臣となり、1万石を与えられて丹羽に住んだ。一説によると、一鉄は信長に利三の返還を要求し、信長はこれを受けて利三の返還を光秀に命じたが、光秀は利三をかばって返さなかったため、怒った信長は光秀を折檻したという。
 天正10(1582)年、光秀は謀反の決意を利三、明智秀満、明智次右衛門、藤田伝五、溝尾勝兵衛らに打ち明けた。当初、利三ら家臣団は強硬に反対したが、光秀の意志の固さを知ってともに計画を練ったという。信長襲撃は成功した。その後、中国から戻り織田信孝と合流した秀吉と山崎で合戦に及ぶが敗れ、利三は近江堅田で捕らえられた。後、京都三条河原で斬首され、その首は主君・光秀とともに晒された。

 佐竹義舜 文明2(1470)〜永正14(1517)
 佐竹家第14代当主義治の子で佐竹家中興の祖とされる。父・義治の死亡により幼くして第15代当主となった。佐竹氏は12代義人の頃から同族の山入氏と争っており、13代義俊、14代義治は16年間もの間、太田城を追われていたこともある。
 しかし、義舜は舅・岩城常隆の仲介で山入氏義と和睦することに成功した。
 ところが平穏は長くは続かなかった。山入義藤、氏義父子が大軍を率いて居城・太田城に攻めてきたのである。義舜はこれを支えることができず、母の実家である大山氏のもとへ逃れ、大山城に入ったが、後により強固な孫根城へ移った。
 明応9(1500)年には、山入勢が孫根城を攻め、落城させた。そのため義舜は、北の西金砂城に逃れ東金砂城の山入勢と戦った。永正元(1504)年、岩城常隆の援軍を得た義舜は太田城を取り戻し、永正3(1506)年には遂に山入城を陥落させ山入氏を滅ぼした。こうして、1世紀もの長きに渡って続いた山入氏との抗争に終止符が打たれたのである。
 その後、義舜は佐竹家法二十三条を制定し、一門の結束の強化を図っている。永正14(1517)年、若年の嫡男・義篤を残して義舜は没したが、弟・義信、弟・政義、子・義里をはじめとする佐竹一門は義篤をよく支えた。この三家はそれぞれ本城との位置関係から北家、東家、南家と呼ばれ、戦国期を通じてその結束を保ち続けた。
        ┏永義(今宮)━光義━━━━┳義通━━━━義賢    
  ┏周義(今宮)┃            ┗義僚━━━━宣貞    
義治╋義舜━━━╋義篤━━━┳義昭━━━━┳義重━━━┳義宣    
  ┣義武(久米)┣義元(小場)┗義昌(小野崎)┃     ┣義広(蘆名) 
  ┃     ┣義里(南家)       ┃     ┣貞隆(岩城) 
  ┃     ┗義康(古内)       ┃     ┣宣家(多賀谷)
  ┃                  ┃     ┗義直(北家) 
  ┃                  ┣義尚(南家)━義種    
  ┃                  ┗義宗(小場)┳義成    
  ┃                        ┣義辰(石塚) 
  ┃     ┏義住                ┗宣忠    
  ┣義信(北家)┻義廉━━━━義斯━━━━━義憲━━━━義盛(小野岡)
  ┗政義(東家)━義堅━━━┳義喬    ┏義賢━━━━義直    
              ┣義忠(酒出) ┣宣宗(伊達)       
              ┗義久━━━━┻宣政(小野崎)━義長   

 真田幸隆 永正10(1513)〜天正2(1574)
 海野棟綱の長子といわれる。信濃国小県郡真田郷を領有し、真田氏を称した。天文10(1541)年、村上義清の侵攻に遭い小県を追放され、上野国箕輪城の長野家に身を寄せた。天文13(1544)年、武田信玄に招かれその家臣となった。
 信玄は天文17(1548)年に上田原で義清に大敗し、天文19(1550)年には義清の戸石城を攻撃したが敗れた。信玄はそれまで信濃の道案内をしていた幸隆に戸石城攻撃の許可を出し、これを受けた幸隆は早くも天文20(1551)年5月26日、僅か1日で攻め落とした。このとき幸隆は事前に村上方の武将を数多く内応させていたのだ。
 戸石城攻めの功により武田家の重臣に列せられることになった幸隆は、その後も川中島の戦いなどで活躍した。後、岩櫃城、崇山城などを落とし、信濃国小県に加えて西上野を領有した。信玄の死の翌年、没した。

 斯波詮高 生没年不詳
 大崎教兼の庶子。教兼は明応元(1492) 年に陸前斯波郡の地頭職になったといわれる。詮高は明応3(1494)年頃に高水寺城に居住し、高水寺斯波家を立てた。
 天文6(1537)年、南部晴政が侵攻して来ると詮高は稗貫氏、和賀氏と連合してこれと戦い退けた。しかし天文9(1540)年、晴政の叔父・石川高信を総大将とする南部勢が来寇し、岩手郡滴石城を陥落させられてしまった。天文14(1545)年には、詮高の嫡男・経詮が岩手郡に出兵したが戦果をあげることができず、退却している。だが、徐々に力をつけた詮高は所領を拡大し、天文23(1554)年頃には雫石にまで勢力が及んでいた。
 詮高は雫石城を次男・詮貞に、猪去館を三男・詮義に任せ統治させた。そして雫石詮貞は雫石御所を称し、猪去詮義は猪去御所を称して高水寺斯波本家を輔けた。このように詮高は一門を中心として、領国経営を行い高水寺斯波家の全盛期を画した。
 しかし高水寺斯波家は詮高死後衰退し、詮高の曾孫・詮直の代の天正14(1586)年、南部信直に攻撃され滅亡した。
大崎教兼┳政兼━義兼┳高兼…義宣   
    ┃     ┗義直━義隆   
    ┗詮高┳経詮━詮真━詮直━詮種
       ┣詮貞━詮貴┳久詮━久資
       ┃     ┗吉久━東膳
       ┗詮義━義方━久道━基久

 柴田勝豊 ?〜天正11(1583)
 伊介。伊賀守。柴田勝家の姉の子。勝家家臣・吉田次兵衛の子であるという説と、渋川八左衛門の子であり吉田次兵衛の養子となったという説がある。稲葉貞通の娘を娶った。
 勝家の養子となり、越前丸岡4万5千石を領した。天正4(1576)年、丸岡城の築城を開始し、城下町を整備した。天正9(1581)年の馬揃えでは、勝家とともに信長に謁している。
 天正10(1582)年の清洲会議で勝家が近江長浜を手に入れるとここを任された。11月、勝家の命で前田利家らとともに秀吉の下へ和平の使者として赴いたが成果を上げられず、12月秀吉に長浜城を包囲されると即座に開城降伏した。
 勝豊は秀吉から寛大な扱いを受け、長浜も安堵されたが、翌天正11(1583)年4月16日、京都東福寺で病死した。賤ヶ岳の戦いの直前であった。

 島津忠良 明応2(1493)〜永禄11(1568)
 明応2(1493)年、忠良は島津家の分家である伊作家の嫡男・善久の子として生を受けた。幼名は菊三郎。母は新納是久の女で常盤といい、既に2女を生んでいた。善久と常盤の政略結婚が成立した後も、善久の父・久逸と新納是久は反目し合っていたが忠良誕生の頃には争いも無くなり、伊作家は平穏を迎えていた。
 しかし、翌年、善久が配下に殺される事件が起こると、その平穏は破られた。伊作家以上の勢威を誇る薩州家の忠興が攻めてきたのである。当主・久逸は伊作城を討って出たが敢え無く戦死した。この状況を見た常盤は自ら出陣し、全兵力で忠興の本営を突いて壊走させることに成功した。そして、いずれ家督を継ぐべき幼い菊三郎の母・常盤が伊作城主となった。
 当主と嫡男がいなくなった伊作城は、領土切り取りを目論む諸豪族の攻撃にさらされた。その度に常盤は伊作家と友好関係にある総州家の運久に援軍を求め、運久も毎度兵を送った。その誼で常盤は運久に再嫁し、両家の友好はますます深まった。やがて、菊三郎は元服して名を忠良と改め、永正9(1512)年、図らずも伊作、総州両家の家督を併せて相続することとなった。
 永正9(1512)年、忠良に長男・虎寿丸が誕生した。この頃の島津本家当主は勝久であったが、本家自体は力を失い、勝久の義兄の実久(忠興の子)に輔けられていた。しかし、実久が薩摩守護職の譲渡を強要してきたため、勝久は忠良を頼った。忠良は虎寿丸を勝久の養子とし、守護職も譲渡するとの条件で勝久に代わって実久に戦いを挑んだのである。大永6(1526)年11月27日、虎寿丸は元服して名を又三郎貴久と改めた。翌年には勝久が隠居し、忠良も法体となり愚谷軒日新斎と号した。
 だが、勝久は実久に説得され、忠良・貴久の居城・清水城を襲った。忠良らは清水城を脱出し、田布施に戻った。この時点で薩州家実久の勢力は忠良の勢力より大きかったため、忠良は清水城を攻めず、伊作城を回復した。
 天文2(1533)年より、忠良は所領を拡大し始めた。まず、日置南郷城攻めを行うがこの戦いで忠良は自らの軍勢を城主・桑波田孫六の軍勢と偽ってまんまと入城し即日陥落させている。同年、日置城の山田有親を降し、天文5(1536)年には伊集院一宇治城の町田久用を破った後、その支城を一気に平らげた。忠良は一宇治城を本城としている。天文7(1538)年、忠良は満を持して実久方の加世田別府城を攻め、翌年元旦落とした。実久は尚も抵抗を続けたが、残った城も次々と落とされ、弟・忠辰も斬られるに及んで遂に降伏した。
 島津家の統一に成功した忠良は後事を貴久に任せ、後進の指導に専念した。天文14(1545)年、忠良は家訓の『いろは歌』を創作した。これは武士としての心構えや臣下の結束の大切さを歌にしたものであり、後世にまで影響を及ぼしている。

 尚真 寛正6(1465)〜大永6(1526) 在位:文明8(1476)〜大永6(1526)
 尚巴志の三山統一の後、その子孫は7代で絶えたため、尚氏の下で貿易を担当していた金丸が、文明2(1470)年、尚円と名乗って王となり第二尚氏王朝時代が始まった。尚円の死後、弟の尚宣威が第2代目王に即位したが、半年で王位を退いたため、尚円の子である尚真が文明9(1477)年12歳で国王に即位し、暫くは母が執政した。
 尚真は各地に分散していた按司(アジ)を首里周辺に住まわせ、地方には管理者として按司掟(アジウッチ)をおいて、地方勢力を従わせた。更に、明応9(1500)年のおやけ赤蜂の反乱で八重山(西表島)、鬼虎の乱で与那国島を支配下に収めるなどしてその勢力圏を広げ、沖縄本島をはじめとして地方の行政区画を整備した。
 尚真は身分制度をも整えている。永正6(1509)年には、按司に身分に応じた色付きの鉢巻やかんざしの着用を義務付けた。また、妹・音智殿茂金(オトチトノモイカニ)を最高女神である聞得大君(キコエオオキミ)として、その下に各地のノロ(女神職)を統一した。
 この時代は外交・貿易面でも発展が著しかった。文明13(1481)年には、初めて薩摩へ紋船(慶賀船)を遣わし、それに対して島津氏は幕府より琉球渡来許可印証発行の権限を認可されている。貿易港・那覇が整備され、交易圏はマラッカ・ジャワ・スマトラ・シャム・安南など東南アジアにまで広がった。また、永正13(1516)年、足利義晴は三宅国秀に琉球遠征を許可しているが、出兵した国秀は島津氏に討たれた。

 神保慶宗 ?〜永正17(1520)
 神保長誠の病死により家督を継いだ。神保家は越中守護代の家柄であり、守護・畠山家に仕えていた。当時の畠山家当主は尚順であり、細川政元と対立していた。政元は長亨2年(1488)年、加賀一向一揆を味方につけて守護・富樫政親を滅ぼし、永正3(1506)年3月にはその一揆勢を越中へ侵攻させた。この奇襲攻撃に慶宗は敗れ、越後守護・上杉房能を頼って越後へ逃れた。慶宗は越後守護代・長尾能景の援軍を得て帰国し、8月18日一向衆を蓮台寺の戦いで破った。勢いに乗る神保・長尾軍は9月19日、般若野で一向一揆と戦った。しかし、途中で慶宗は能景を裏切って一揆方につき、能景をはじめ水原景家などの部将を討ち取った。これにより慶宗と椎名慶胤は旧領に復し、一向一揆と手を結んだのである。しかし、長尾家とは折り合いが悪くなり、以降能景の後を継いだ為景と抗争を繰り広げることになった。
 越後平定を終えた為景は越中侵攻を繰り返し、慶宗はこれを防いでいたが、今度は慶宗の勢力伸長を快く思わない越中守護・畠山尚順が、能登畠山義総とともに為景と結んだため状況は一変した。永正16(1519)年3月、畠山・長尾軍は越中に侵攻し、慶宗は椎名慶胤とともに迎え撃ったが、神保・椎名軍は境川の戦いで敗北し、慶宗は二上山城に籠城した。勝算は低かったが、畠山家の不手際で為景は兵を退いた。
 だが、翌永正17(1520)年には再び連合軍が来寇した。慶宗は畠山尚順に降伏を申し出たが、為景が反対し容れられなかった。慶宗は12月21日、椎名、遊佐、土肥氏らとともに長尾方の新庄城を攻め、為景はこれを迎え撃った。当初は神保軍が優勢であったが、後長尾軍が反撃に転じ神保軍は総崩れとなった。椎名慶胤らの裏切りが原因ともいう。慶宗は二上山城に逃れようとしたが神通川をはじめとする河川の渡河に苦しみ溺死者、凍死者を多く出した。さらに二上山城が畠山義総に落とされていたため、慶宗は観念し、自刃して果てた。

 薄田兼相 ?〜元和元(1615)
 官途受領は隼人正。豊臣秀頼に仕え、三千石を領有し、大坂城一の怪力の持ち主と言われた。
 慶長19(1614)年、大坂冬の陣が勃発すると兼相は城の西側に位置する博労ヶ淵砦の守備を任された。しかし、敵の攻め込んで来る気配が無かったため、兼相は砦を離れ娼家に出かけた。だが翌11月29日、徳川方の石川忠総、蜂須賀至鎮が博労ヶ淵砦を攻撃し大将不在のまま戦闘が始まってしまう。兼相の帰還が間に合わず、統制のとれなかった守備側は脆く、砦はあっけなく陥落した。この敗戦後、兼相は「橙武者(外見は素晴らしいが、実力を伴わない)」という不名誉な異名を付けられた。
 翌年の大坂夏の陣で兼相は汚名返上を図った。5月、兼相は後藤又兵衛、真田幸村らとともに大和路に進軍した。6日、先鋒の後藤又兵衛は道明寺周辺で徳川方・水野勝重軍と衝突し、10倍もの敵勢を相手に奮戦したが討死した。その後、薄田兼相らの第2軍が到着し後藤軍の残兵を収容したが、息つく間もなく水野軍と戦闘になった。兼相は奮戦し、多くの敵を討ったが力尽き、水野勝成の家臣・川村重長に討たれた。
 尚、兼相は豪傑・岩見重太郎と同一人物であるとされている。

 長寿院盛淳 天文16(1547)〜慶長5(1600)
 畠山頼国の子。頼国は天文年間に京から薩摩に下向し、島津氏の客分となった。
 盛淳は3歳の時から紀州高野山、根来寺で修行したのち薩摩へ戻り鹿児島安養院の住持となったが、島津義久の要請を受けて島津家臣となった。天正14(1586)年、義久の奏者として豊臣家へ使者となり、翌年義久が秀吉に降伏したときはともに秀吉の前に伺候した。天正16(1588)年には、義久に従い石田三成と会見した。この年より義久の家老となっている。
 慶長5(1600)年、盛淳は上方に僅かな兵を率いて駐留している島津義弘を援助するため、蒲生衆、帖佐衆70人を率いて薩摩を発し、関ヶ原本戦の2日前(9月13日)に義弘軍と合流した。9月15日、小早川秀秋の寝返りによって西軍が崩れると、義弘は全軍に前進退却を命じた。島津勢は福島正則勢、徳川家康本陣をかすめて伊勢街道を南下した。そこに井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃してきたため、島津豊久が迎え撃ち玉砕した。盛淳は烏頭坂を下ったのち、義弘が秀吉から拝領した陣羽織を着て迎え撃ち義弘の身代わりとなって果てた。この盛淳らの働きによって義弘は薩摩まで帰還することができたのである。
 尚、子孫は阿多の領主となり、阿多姓を称している。

 長続連 ?〜天正5(1577)
 能登穴水城主。平秀続の次男。長英連(続連の伯父か)の養子となり長家を継いだ。将軍・足利義輝に仕えた後、能登畠山家臣となった。
 七尾城を築き城下町を整備した名君・畠山義総の死後、能登畠山家では畠山七人衆(長続連、遊佐続光、宗円、温井総貞、三宅総広、平総知、伊丹総堅)の間で権力抗争が繰り広げられ、当主・義続は傀儡となってしまった。
 中でも権力の強かった遊佐続光は敵対者を一掃するため兵力を領内に進入させたが、長続連、綱連父子は温井総貞らとともにこれを撃退し遊佐続光を失脚に追い込んだ。しかし遊佐続光は天文19(1550)年、帰参したため再び緊張状態となった。
 この後、畠山義続は家臣団によって隠居を強いられ、家督を子・義綱に譲った。が、義続は義綱の後見として政権奪回を図り、弘治2(1556)年、温井総貞を暗殺し、その孫・景隆らを追放した。畠山親子は専制を図るが、家臣団の反発を受け、永禄9(1566)年、追放された。家督は義綱の子・義慶が継いだが謎の死を遂げ、さらにその跡を継いだ義慶の弟・義隆も急死し、幼い春王丸が当主となった。
 また、永禄8(1565)年、長続連は子・綱連に家督を譲っている。
 畠山家中で抗争が続いている間、織田信長は着々と勢力を拡大し、上杉謙信も能登侵攻の機会を窺っていた。長続連は信長と親睦を深め、遊佐続光は上杉謙信と結び、温井景隆は一向宗を頼った。そして、天正4(1576)年から上杉謙信の能登侵攻が始まった。当初は家臣団一丸となって防戦の構えを見せ、続連は子・連龍を信長のもとに送り援軍を要請したが、支城、砦は尽く陥落し、残るのは七尾城のみとなった。謙信は兵糧攻めの策を採った。そこで、続連は敵方から見える岩場に米を流し、あたかも滝が流れているかのように見せかけたため、攻め手の士気は大いに萎えたという。しかし、謙信はこれを見破り、遊佐続光、温井景隆と内応して続連を攻撃した。これにより続連、綱連をはじめとする長一族100名が粛清されたのである。

 百々綱家 天文17(1548)〜慶長14(1609)
 百々綱家は近江の名家出身で、築城術に長けていた。当初丹羽長秀に仕えたが、後秀吉の直轄領の代官を務めた。秀吉が清洲会議において織田家継承者に推した織田秀信(清洲会議当時は三法師)が岐阜城主となる際、秀吉の勧めで木造具康(長政と同一人物か)とともに秀信の家老となった。
 石田三成が家康に対して挙兵したとき、秀信は三成から味方するよう誘われ、秀信はこれを肯んじた。綱家は具康とともに反対したが、秀信を説得するには至らず織田家は西軍に与することとなった。
 8月14日に清洲城に終結していた東軍諸将は家康の到着を待たずに動き出した。8月21日、清洲を発った3万5000の軍勢は犬山城、竹ヶ鼻城を無視し岐阜城へ向かった。岐阜城では軍議が開かれた。綱家ら家臣団は籠城を主張したが、城主・秀信は祖父・信長に倣い討って出るべきだと強硬に反対したため、出撃することに決した。
 22日、織田勢は岐阜城を出撃し、東軍の池田輝政、一柳直盛、浅野幸長、山内一豊、堀尾忠氏、有馬豊氏、戸川達安、京極高知らと木曽川を挟んで対峙した。東軍は渡河を開始したが、対岸には綱家によって予め防材が組まれ、鉄砲隊が配されていた。東軍勢は銃撃に倒れたが、数を頼みに渡河を強行したため、不利になった織田勢は城内に引き、籠城した。籠城戦では東軍に圧倒され、秀信は遂に降伏勧告を受け入れた。
 秀信はこの後、出家して高野山に移った。綱家は岐阜城の戦いで交戦した山内一豊から仕官の誘いを受け、土佐山内家に仕えた。

 鳥居元忠 天文8(1539)〜慶長5(1600)
 鳥居忠吉の子。天文20(1551)年、父とともに駿府へ赴き竹千代に仕えた。
 弘治4年(1558)年、家康の初陣である寺部城攻めに従軍したのを始め、大高城兵糧入れ、遠江掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど主要な合戦には尽く参陣し、多くの戦功をあげた。天正3(1575)7月、元忠は諏訪原城攻撃で先鋒を務めたが左股に被弾し、片足が不自由となった。しかしその後も、犬居城、田中城、高天神城の攻略などで活躍した。
 天正10(1582)年の甲斐経略にも従軍し、黒駒で北条氏忠軍を撃破する活躍を見せ家康の甲斐領有に大きく貢献した。この功により甲斐郡内一円を与えられている。小牧・長久手の戦いでは甲府を守り、家康の後顧の憂いを絶った。天正14(1586)年、家康上洛の際には秀吉から官位を与える申し出があったが、これを辞した。小田原征伐では武蔵岩槻城を陥れ、その後の家康の関東移封に伴い下総矢作四万石を与えられ、佐竹家に対する抑えとなった。
 慶長5(1600)年、家康が上杉景勝征伐を決定すると元忠は伏見城の守りを命じられた。家康は元忠と酒を酌み交わし、6月18日に出発した。また、家康は島津義弘にも伏見城の守備を頼んでおり、7月17日には義弘が入城しようとしたが、島津も伏見城の守備を任されていることを知らない元忠はこれを拒絶した。そして7月19日、西軍の第一の標的となった伏見城は宇喜田秀家を総大将とする軍勢の攻撃を受けた。元忠はかなりの兵力差がありながらも10日以上持ちこたえたが、8月1日城内に内応者が出て、遂に落城。元忠は鈴木重朝に討ち取られた。

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