戦国武将録〜な行、は行〜
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 難波田憲重 ?〜天文15(1546)
 弾正忠。別名善銀。扇谷上杉朝興、朝定に仕えた。父は難波田弾正左衛門正直との説がある。娘は太田資正の妻になったという。
 憲重は上田政盛が北条方に寝返った後、城代として松山城に入った。天文6(1537)年4月27日朝興が武蔵河越城で没し、子・朝定が家督を継ぐと、北条氏綱は河越城へ向け進軍を開始した。朝興の弟・朝成は三ツ木でこれを迎え撃ったが敗れ上杉勢は総崩れとなり、7月15日には河越城が陥落したため松山城へ敗走した。このとき朝成は生け捕られている。松山城の憲重は朝定を迎え入れ、7月20日に北条勢と戦闘となったが難波田勢の活躍で辛くも撃退した。このとき憲重は北条方の山中主膳と「松山城風流歌合戦」を行っている。それは山中が「あしからじよかれとこそたゝかはめ など難波田のくずれ行らん」と詠み、憲重が「君をゝきてあだし心を我もたば すえの松山波もこえなん」と返すものであった。
 北条家は川越城に一門の北条綱成を配し守らせていた。天文15(1546)年、朝定は川越城を奪い返すため山内上杉憲政とともに古河公方・足利晴氏を説得して味方につけ、8万とも言われる軍勢で川越城を包囲した。城主・綱成の兵は僅かで、救援に来た氏康軍は8000人程度であったため、北条方から和議の申し入れがなされた。しかしそれに油断した上杉勢に氏康が夜襲をかけたため上杉勢は大混乱に陥った。その中で憲重は朝定以下の将士を激励して奮戦したが、最期は古井戸に落ちて死亡したという。

 二階堂輝行 ?〜弘治3(1557)
 奥州二階堂家第16代当主で須賀川城主・二階堂晴行の子。家督を継いで第17代当主となった。室町幕府第13代将軍・足利義輝の偏諱を受け、輝行を名乗った。
 輝行が当主の頃の二階堂家は北に伊達、西に蘆名という大勢力の狭間にあり、苦境に立たされていた。そこで輝行は伊達稙宗の四女を娶り友好関係を築いた。ちなみに、稙宗の長女は相馬顕胤、次女は蘆名盛氏、五女は田村隆顕、六女は懸田俊宗に嫁いでいる。
 天文11(1542)年に稙宗と晴宗が争う天文の乱が起こると、輝行は田村隆顕とともに稙宗方につき、晴宗方の蘆名盛氏、岩城重隆を警戒した。しかし天文16(1547)年、田村家とは対立し、それによって稙宗方の足並みが乱れたことで蘆名盛氏が晴宗方に味方し、晴宗方が優勢となった。田村氏は晴宗方につく者が現れて分裂し、伊達家臣も多くが晴宗についた。大崎家中も分裂し、最上義守も晴宗に味方し、葛西家でも家臣の柏山氏が晴宗につくべく反乱を起した。尚、輝行は当初敵対していた白河義綱と天文17(1548)年に和解している。このように諸将が晴宗方についたことで一気に決着がつき、稙宗の隠居をもって乱は終息した。
 以後、輝行は勢力を拡大した蘆名盛氏に抗すべくもなく、徐々に従属せざるを得ない状況に陥っていった。輝行死後、子・盛義は永禄9年(1566)年に蘆名家に従属しその子・盛隆を人質としたが、幸運にも蘆名家の嫡流が断絶し盛隆を蘆名家の当主とすることに成功した。しかし、盛義が死に、盛隆が側近に殺された後の天正16(1588)年、伊達政宗によって滅ぼされた。

 仁賀保挙誠 1560(永禄3)〜1625(寛永2)
 仁賀保氏は、甲斐源氏小笠原氏流の大井朝光の裔と伝えられ、戦国期には出羽国山根館を拠点とし、国人連合・由利十二頭の中心的存在であった。由利十二頭は状況に応じて大宝寺、小野寺、安東などの戦国大名と結び保身を図っており、その十二家は明らかではないが、仁賀保、赤尾津(小助川)、滝沢(由利)、岩屋、打越、下村、石沢、禰々井(根井)、潟保、子吉、玉米、矢島(大井)などの諸氏であるという。挙誠は赤尾津家から仁賀保挙晴の養子となった。
 仁賀保氏は大宝寺氏と親密であり、小野寺氏と親密な矢島(大井)氏と抗争を繰り返していた。天正16(1588)年、挙誠は矢島満安の娘を娶り、友好関係を築こうとしたが抗争は終わらなかった。天正18(1590)年、仁賀保家は秀吉より自領と矢島領を併せて安堵されている。そして文禄元(1592)年、挙誠は他の由利衆とともに矢島満安を攻撃し、満安は小野寺茂道のもとに逃れたが、翌年小野寺義道の攻撃を受け滅亡した。
 慶長5(1600)年、挙誠は徳川家康の上杉景勝征伐で功を挙げ、本領五千石を安堵された。慶長7(1602)年、常陸武田に移封されるが、大坂の陣で山城淀城を守衛するなどして、元和9(1623)年には旧領仁賀保に復帰して五千石を加増され、一万石の大名となった。挙誠が寛永2(1625)年に没すると、遺領は長男・良俊七千石、次男・誠政二千石、三男・誠次一千石に分封され、後に良俊流は断絶したが、誠政流、誠次流は明治まで存続した。

 波多野稙通 生没年不詳
 稙通の父・波多野秀長は応仁の乱で細川勝元方に属して各地を転戦し、勝元の子・政元から丹波多紀郡を与えられ、この地を中心に勢力を伸ばした。稙通は永正12(1515)年、朝治山に八上城を築き、本拠としている。
 大永6(1526)年に弟の香西元盛が細川高国の被官・細川尹賢の謀略で自害させられると、稙通はもうひとりの弟・柳本賢治とともに細川高国に反旗を翻し、細川晴元と結んだ。
 大永7(1527)年2月、賢治は阿波の三好勢と連合して、京都桂川川勝寺で高国・尹賢軍を破った。高国は将軍・足利義晴を擁して近江朽木谷に逃亡し、賢治は入京して京都の支配権を掌握した。3月には三好元長が足利義晴の弟・義維を擁して渡海してきたが入京はせず、堺に止まった。
 一方、八上城にいた稙通は天文2(1533)年、晴元方の赤沢景盛を母坪城で破り、天文7(1538)年には晴元に味方して、三好政長とともに守護代・内藤国貞の八木城を落とした。そして天文14(1545)年、三好長慶とともに内藤顕勝の関城を陥れ、丹波一帯の支配に成功したのである。

 鉢屋弥之三郎 生没年不詳
 鉢屋衆は平安末期から存在していた窃盗集団で、平将門の乱で反乱軍に加勢したため都を追われた。様々な悪行をはたらき万人に恐れられたが、空也上人に教化されて後は上人の推めで盗賊追捕の役に付き、諸国に散った。弥之三郎はその中でも因幡、伯耆、出雲、石見の鉢屋を束ねていた忍者である。
 文明3(1485)年、弥之三郎は当時浪人であった尼子経久から援助の要請を受けた。事の次第は次のようである。
 尼子経久は出雲守護・京極政経の被官で守護代を務めていたが、尼子家の権力拡大を図り関銭の横領などを行った。ために政経の怒りを買い、文明16(1484)年、月山富田城を逐われたのであった。経久が去った後の富田城には塩冶掃部介が守護代として入った。富田城奪回を目指す経久は翌年、山中勘兵衛らをはじめとする旧臣たちを集め策を練った。そして富田城下在住の鉢屋衆に援助を要請したのである。
 富田城では鉢屋衆が毎年元旦、城内で千秋万歳を舞う習慣になっていた。経久はこれを利用した。文明18(1486)年元旦、鉢屋衆70名は楽曲を奏でつつ城門へと進んだ。城方は何の疑いもなくこれを通し鉢屋衆は城内へ入った。一方、亀井秀綱、真木上野介、山中勘兵衛ら旧臣は弥之三郎の子・治郎三郎と兵衛三郎の協力で搦手より忍び込んだ。そして鉢屋衆が狼煙を上げると、尼子勢が乱入し、楽曲を奏でていた鉢屋衆も隠し持っていた武器を取り出し塩冶勢に襲いかかったのである。掃部介は自害して果て、経久は富田城主に返り咲くことができたのだ。この功で弥之三郎は本丸の北にある鉢屋平に長屋を与えられて住み「やぐら下組」と呼ばれるようになった。

 比叡山覚恕 永正18(1521)〜天正2(1574)
 永正18(1521)年12月12日、後奈良天皇の第一皇子として生まれた。母は伊予局(小槻雅久女)。正親町天皇の異母兄に当たる。
 曼殊院で得度し、山科言継、朝山日乗、村井貞勝らと親交を持ったようである。元亀元(1570)年4月23日に比叡山第166世天台座主となり、6月10日六角義賢、義治父子が柴田勝家に生け捕られたときには助命嘆願を行っている。
 元亀元(1571)年9月、比叡山延暦寺は信長の焼討に遭うが覚恕は山上に居らず難を逃れた。が、後に責任を追及され天台座主の座を退いている。元亀4(1573)年には信玄の上洛に同行した。信玄が没したとき、家臣団は信玄の死を秘すため、これを覚恕の死として荼毘に附したともいわれている。実際には天正2(1574)年1月3日に没した。

 平野長泰 永禄2(1559)〜寛永5(1628)
 尾張に生まれ、天正8(1580)年から秀吉に仕えた。
 賤ヶ岳の戦いでは小原新七、松村友十郎を討ち取り七本槍のひとりに数えられた。この功で三千石を賜っている。長久手の戦いでは、羽柴方は敗れたが長泰は敵の首級をあげる活躍を見せた。文禄3(1594)年、大和田原に五千石を賜り、慶長3(1598)年には従五位下遠江守に叙せられ豊臣姓を賜った。
 関ヶ原の戦いでは東軍に属すが加増はなかった。以降は幕府の普請命令を積極的に請け、家康、秀忠から感状を授かっている。大坂の陣では豊家恩顧の武将ゆえに江戸留守居役を命じられた。幕府内では老中直属の交代寄合の地位を獲得した。寛永5(1628)年5月7日死去。

 福島正則 永禄4(1561)〜寛永元(1624)
 幼名は市松。秀吉と同郷であることから幼少期から仕え、寵愛された。天正6(1578)年の播磨三木城攻めで初陣を飾っている。
 賤ヶ岳の戦いでは拝郷五衛門を討ち取る功をあげ、賤ヶ岳七本槍のひとりに数えられた。戦後、正則を除く七本槍はいずれも三千石を加増されたが、正則は近江、河内に五千石を加増された。
 その後、九州征伐の功では伊予湯築十一万三千石を賜り、秀吉の関白就任時には従五位下左衛門大夫に叙任され播磨竜野城主となった。文禄4(1595)年には、切腹した豊臣秀次に代わり清洲二十四万石を領し、従四位下侍従に昇進、更に羽柴姓を賜った。
 関ヶ原の戦いに際しては、高台院(秀吉正室)の勧めと三成憎しの思いから、小山軍議で東軍参加を表明した。豊臣恩顧の正則が東軍についたことで諸将は次々と家康に靡いた。岐阜城戦や本戦で勇猛振りを発揮した正則は戦後、安芸一国と備後の一部を加増され四十九万石を領有した。
 その後も正則は旧主・豊臣家への忠誠は忘れず、度々大阪城に赴いた。そのため、大坂の陣のときは江戸に押し込められていた。元和5(1619)年、幕府内での権力抗争を見誤った正則は、広島城無断改修の罪で信濃川中島四万石に減封され、蟄居を命じられた。福島家は正則の死後改易となっている。

 細川氏綱 ?〜永禄6(1563)
 細川氏庶流典厩家尹賢の子で細川高国の養子となった。
 応仁の乱で三管領のうち斯波、畠山の二家が没落したのちの管領職は細川氏により独占され、いわゆる京兆専制体制が確立された。京兆とは細川氏代々の官職・右京大夫の唐名で、細川宗家を指す。京兆専制の最初の管領・細川政元は将軍すげ替えを駆使して実権を手中にしたが実子がなく、九条政基の子・澄之、細川(阿波守護家)義春の子・澄元、細川政春の子・高国を養子に迎えた。しかし、澄之と澄元の間で家督争いが起こり、それに巻き込まれて政元は謀殺された。
 その後、家督継承者は澄元と決まったが、今度は澄元と高国の間で同様に争いが起こった。澄元は足利義澄を擁したが、高国は足利義材を擁する大内義興を味方につけてこれを破った。義澄は没し、澄元が高国に代わり義材を擁立したが、戦ではまたも高国が勝利した。澄元没後、高国は足利義澄の子・義晴を将軍に擁立し、自らの子・稙国に管領職を譲ったが稙国は間もなく没し、氏綱が養子に迎えられたのである。
 しかし、三好元長が足利義維(義晴の弟)、細川晴元(澄元の弟)を擁し、堺を拠点に勢力を伸ばしたため高国は享禄4(1531)年、天王寺でこれと戦うが、敗れて捕らえられ自害させられた(大物崩れ)。
 だが高国が没すると義維を擁する三好元長と義晴を擁する細川晴元の対立が表面化し、早くも翌享禄5(1532)年、合戦が起こった。この戦いでは晴元が木沢長政、茨木長隆らの国人と本願寺勢力を味方につけ勝利し、敗れた元長は自害した。
 晴元は傀儡・義晴のもと幕政を牛耳った。しかし天文12(1543)年、高国旧臣に擁された細川氏綱が挙兵した。抗争は長期化したが戦闘開始から5年後、晴元臣・三好長慶が寝返ったため氏綱方が優勢となり、晴元を義晴、義藤(義晴の子)ともども京から追放した。
 天文21(1552)年、足利義藤と和解した氏綱は長慶とともに京に入り、従五位下右京大夫次いで管領に任じられた。
 長慶の傀儡として管領の地位にあった氏綱は、その後長慶の命で摂津淀城に移送され永禄6(1563)年、同地で没した。
    ┏…澄之          ┏義勝               
細川政元╋…澄元━━晴元 足利義教━╋義政━━義尚           
    ┗…高国┳━稙国      ┣政知━┳茶々丸    ┏義藤(義輝)
        ┗…氏綱      ┃   ┗義澄━┳義晴━┻義昭   
                  ┗義視━━義材 ┗義維━━義栄   

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