戦国武将録〜ま行、や行、ら行、わ行〜
戻る
 毛受勝照 ?〜天正11(1583)
 名は家照、吉親、照景ともいう。父は毛受照昌で、尾張春日井出身である。少年期に柴田勝家の小姓となった。後年、小姓頭となって1万石を与えられている。
 伊勢長島の一向一揆との戦いで、勝家が馬印を奪われたとき、敵陣へ突入し馬印を奪い返した功により勝家の偏諱を賜ったという。
 賤ヶ岳の戦いでは、柴田方の敗北が決定的となった後、討死の覚悟を決めた勝家を説得して退却させ、自らは兄・茂左衛門とともに砦に立て籠もった。勝照は時間稼ぎのために勝家の馬印を掲げた。これを見た秀吉は勝家がいるものと思い込み、最初手を出さなかった。かくして勝照の計略で勝家は逃げおおせることができたが、間もなく秀吉の攻撃を受け討死した。

 山中鹿之介 天文14(1545)〜天正6(1578)
 天文14(1545)年、鹿之介は出雲国新宮山中屋敷で山中三河守満幸の次男として誕生した。
 天文23(1554)年、尼子家当主晴久により新宮党の尼子国久が粛清されたが、後に鹿之介が擁立することになる幼い勝久(国久の孫)は密かに逃がされた。弘治2(1556)年に晴久嫡男の義久の近習となり、永禄3(1560)年には幸盛と名を改めた。同年、伯耆尾高城攻めでは敵方の驍将菊池音八正茂を一騎討ちで破った。
 毛利元就の尼子攻めが始まると、晴久は謎の死を遂げ義久が家督を相続した。毛利軍は月山富田城の支城を次々に陥れ、遂に月山富田城を残すのみとなった。元就は富田城を包囲し、兵糧攻めの作戦を採った。そのような状況の中で、鹿之介は毛利方の品川大善(木或木狼之介勝盛)と一騎討ちをしてこれを破っている。尚、品川大善は益田藤兼の配下である。
 永禄9(1566)年、尼子義久が降伏し幽閉されると、尼子家臣の多くは毛利家に従ったが、鹿之介は叔父の立原源太兵衛久綱や隠岐水軍の奈佐日本之助らとともに尼子家を再興すべく動き始める。まず鹿之介は、久綱の計らいで織田信長の援助を受け、京で僧になっていた尼子誠久の遺児を還俗させ、尼子勝久と名乗らせた。尼子家再興の旗頭としたのである。
 元就が九州の大友攻めに向かうと、鹿之介らはその隙を突いて、月山富田城に迫った。富田城には尼子方の7分の1の兵力しか毛利勢がおらず、城将天野隆重は早速降伏を申し入れてきた。しかし、鹿之介らがこれを受け入れ、兵を入城させ始めると、隆重がこれに一斉攻撃をかけたため多くの犠牲を出した。また、この頃、大内輝弘(大内義興の甥との説もある)も山口に攻め込んでいる。一方の元就は高橋鑑種、秋月種実、立花鑑載を寝返らせ、立花城を陥れる快進撃を続けていた。しかし、勝久、輝弘の侵攻を知ると、吉川元春、小早川隆景の反対を押し切って立花城を捨て、兵力を中国に送った。尼子勝久軍6700は毛利輝元軍15000と元亀元(1570)年2月14日、月山南方の布部山で激突した。しかし、戦いは数で勝る毛利軍の勝利となり、鹿之介は捕らえられた。鹿之介は下痢と偽り、厠に何度も入り、肥え壺を通って脱出する事に成功した。
 天正2(1574)年9月、鹿之介らは毛利入道浄意の僅かな兵しかいない因幡鳥取城を陥落させた。しかし、信長が毛利輝元と和睦したため泣く泣く兵を引いた。
 天正5(1577)年、鹿之介らは秀吉の中国攻めの先鋒をつとめた。秀吉は上月城を陥れると、これを鹿之介らに与え守りにつかせた。しかし、毛利の反応は素早く、吉川元春、小早川隆景が数万の大軍を率いて来寇した。尼子方は秀吉の来援まで持ちこたえられず、勝久は自刃し、鹿之介は捕らえられた。鹿之介は最期まで諦めず、元春の首を狙ったが護送途中に殺害された。

 龍造寺家純 ?〜天文14(1545)
 龍造寺家中興の祖・家兼の子で龍造寺隆信、鍋島直茂の祖父。家兼は肥前守護・少弐資元の被官であった。
 享禄3(1530)年、大内義隆の命を受けた筑前守護代岩屋城主・杉興運は少弐家の本拠・勢福寺城に迫った。これに対して少弐資元は家臣を呼び集めたため、家純も父・家兼に従い出陣した。しかし、興運が少弐家臣・朝日頼貫、横岳資貞、千葉胤勝(資貞の子)らを寝返らせたため、少弐方は苦しい戦いを強いられることとなった。8月15日、家兼は大内軍の先陣を破ったが、田手畷で杉興運、横岳資貞、筑紫尚門らの大内本隊1万余と激突し、後退した。龍造寺勢は次第に崩れたが、突如赤熊の毛と鬼の面を顔につけた200余騎の鍋島清久・清房父子勢が出現し、大内陣を切り崩した。これを見て家兼も反撃に転じたため大内勢は総崩れとなり、横岳資貞、筑紫尚門、朝日頼貫らは討死し、杉興運は大宰府へ逃げ去った。戦後家兼は鍋島清久・清房の活躍を称えて所領を与え、家純は娘を清房に娶らせた。
 天文2(1533)年、少弐資元は岩屋城を奪ったが大内家臣・陶興房に奪い返された。大内勢はその勢いで肥前に進出し、天文3(1534)年、少弐家の勢福寺城と龍造寺家の水ヶ江城を同時に攻めた。しかし、家兼は水ヶ江城を守り抜き、残りの軍勢も奇襲によって蹴散らした。この後、家兼は少弐家と大内家の和議を仲介したが、少弐家は所領を没収され、資元はその圧迫に耐え切れず自害した。これ以後家兼は資元の子・冬尚を補佐し、肥前の実権を掌握した。
 天文13(1544)年、家兼は少弐冬尚の依頼で西肥前の豪族の反乱鎮定に向かった。だが、この戦いで龍造寺方は多くの戦死者を出した。そして疲弊しきった軍勢が水ヶ江城に戻ると、その直後に少弐家の軍勢2万が攻め込んできたのである。少弐家臣・馬場頼周の謀略であった。頼周は主君・冬尚に、家兼に大内家と内通の疑惑ありと讒言していたのである。頼周は家兼に、隠居し冬尚に対して弁明を行うことを勧め、家兼はこれを受けた。しかし、これは頼周の更なる謀略であった。家兼の命により、周家、家泰、頼純の3人が冬尚の許へ赴き、家純は家門、純家とともに筑前の縁者の許へ赴いた。そして、周家一行は1月24日神崎で、家純一行は1月23日川上で討ち果たされ、家兼は失脚したのである。
家兼━┳家純━┳周家━━隆信 
   ┃   ┣頼純     
   ┃   ┣純家     
   ┃   ┗女(鍋島清房室)
   ┗家門━━家泰     

 冷泉隆豊 ?〜天文20(1551)
 父は冷泉下野守興豊。大内家臣で義興、義隆の二代に仕えた。左衛門少尉、冷泉判官を称している。
 天文10(1541)年に安芸銀山城主となり、仁保島、大根島など多くの戦に参陣した。また、和歌にも堪能であった。
 隆豊は、天文11(1542)の出雲遠征における敗北以来、政務に一切の関心を示さない義隆に、度々諌言したが聞き入れられず、遂に天文20(1551)年、陶隆房の謀反を許してしまった。大内氏配下の大半は陶方についたが、隆豊は義隆に付き従った。義隆は隆房の謀反を聞くと、まず大内館から近くの築山館へと避難し、高嶺山麓の法泉寺へと退いた。更に長門に逃れ、そこから船で津和野の吉見正頼を頼って逃れようとしたが、折からの風雨のため叶わず、長門の大寧寺に引き返した。そこで命運尽きたことを悟った義隆は大寧寺に入り、禅問答をした後、隆豊に介錯を命じて自刃した。介錯を終えた隆豊は、大寧寺を囲んでいた軍勢と戦い、最期は自らの腹を切り裂き、その腸を敵めがけて投げつけたという。辞世の句は「みよやたつ雲も煙も中空に さそひし風のすえも残らず」

 脇坂安治 天文23(1554)〜寛永3(1626)
 近江に生まれ、明智光秀に仕えた。初陣の丹波黒井城攻めで功をあげ、丹波の赤鬼の異名を持つ敵将・赤井直正から貂の皮の旗指物を贈られた。これ以後、行列の先頭者の槍の穂先には必ず貂の皮をつけたという。後、自ら志願して秀吉に仕えた。
 賤ヶ岳の戦いでは七本槍に数えられるほどの功績をあげ、三千石を賜った。翌年の小牧・長久手の戦いでは織田信雄の居城・伊賀上野城を陥れる活躍を見せた。天正13(1585)年には摂津に一万石を賜り、九州征伐では先鋒を務めた。
 淡路洲本を賜った後は水軍を率いるようになり、小田原征伐では加藤嘉明らとともに下田の戦いで活躍した。文禄・慶長の役でも水軍を率い、戦っている。
 関ヶ原の合戦では不本意ながら西軍参加を余儀なくされが、早速家康に内応し、ついでに朽木元綱、小川祐忠、赤座直保ら三将も誘った。この四将は本戦で松尾山山麓に布陣し、小早川秀秋が寝返るとこれに呼応して大谷吉継陣に襲いかかった。安治はこの功で伊予大洲五万三千石を賜った。寛永3(1626)年8月6日、京都で死去。

戻る