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戦国大名録

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南部家 本拠:陸奥聖寿寺館→陸奥三戸城
 政康━┳安信━━晴信━━晴継
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 石川氏┣高信━━信直━━利直
    ┃
  南氏┣長義
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 石亀氏┣信房
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毛馬内氏┗秀範
 南部氏は新羅三郎義光から数えて5代目にあたる加賀美次郎遠光の三男・光行が甲斐国南巨摩郡南部邑を領し、南部を苗字としたことに始まるという。
 23代・安信は弟たちを各地に配し、一門を中心とした領国支配体制を築いた。
 その子・晴政は天文9(1540)年、戸沢家が支配していた岩手郡に侵攻し制圧した。その後、岩手郡は戸沢家、斯波家らの侵攻にさらされたが、守りきっている。永禄10(1567)年には安東愛季に鹿角郡を奪われたが、翌年に奪還した。晴政は津軽郡代に叔父の石川高信を置いていたが、元亀2(1571)年、高信は大浦為信に討たれた。
 晴政とその嫡男・晴継が相次いで亡くなると、石川高信の子・信直と晴政の娘婿・九戸実親との間に家督を巡る対立が起こった。北信愛、八戸政栄らの推薦で信直が当主となったが、九戸氏との対立は残ることとなった。天正13(1585)年、信直は大浦為信に敗れ津軽を失った。天正15(1587)年に北信愛を上方へ派遣し、前田利家より南部惣領権を認める起請文を得ている。翌天正16(1588)年には斯波詮直を攻め滅ぼし、斯波郡を手中に収めた。天正18(1590)年の小田原征伐に参陣し、本領安堵を受けた。その翌年、九戸政実が反乱を起こしたが、豊臣秀吉に援軍を要請して鎮圧した。
 南部家は盛岡藩主として明治まで存続した。

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