那須家は南北朝時代の動乱で上那須家と下那須家に分裂していた。
上那須家当主・資親は白河政朝の子・資永を養子としたが、実子の資久が誕生したため、これに家督を継がせるように遺言し死去した。この遺言によって起こった内紛で資永、資久がともに死去したため、下那須家の資房が両那須家を併せて継承し那須家を統一した。資房は永正17年(1520)年、領内に侵入した白河顕頼と岩城常隆の連合軍を破っている。
資房の死後、資房の子・政資と孫・高資が対立した。天文17(1548)年、高資は政資と結んだ宇都宮尚綱に攻撃を受けたが、伊王野資宗の家臣が宇都宮尚綱を射殺して勝利を収めた(五月女坂の戦い)。しかし天文20(1551)年、高資は尚綱の子・広綱と芳賀高定の謀略により千本城で横死した。
高資の後は異母弟・資胤(母は大田原資清の娘)が当主となった。当初は伯父・大関高増の後見を受けたが、のちに対立し、永禄9(1566)年、佐竹義重の援軍を得て攻め込んできた大関高増に降伏した。このとき、佐竹義重の弟・義尚(那須資綱)が当主となったが、間もなく追放され資胤の子・資晴が当主となった。
資晴は佐竹、蘆名、結城、宇都宮などの戦国大名とよく戦ったが、秀吉の小田原征伐に遅参し、所領を没収された。 |