鎌倉以来の豊後守護。戦国初期の当主・政親は子・義右と不和になり明応5(1496)年にこれを殺害したが、その後大内家の圧力で自らも自害し、大友家は存亡の危機に晒された。
しかし、跡を継いだ親治は反乱分子の鎮定に成功し、その子・義長の代には分国法も制定された。義長の後を受けた義鑑は家臣の謀反を鎮定し功臣に所領を与え、また将軍家に接近して権威を高めた。だが、菊池家の当主となった弟・義武と対立し、苦しい戦いを強いられた。
二階崩れの変で義鑑が死ぬと義鎮が家督を継いだ。義鎮は天文23(1554)年に叔父・義武を討ち、北九州を席巻して永禄2(1559)年には6ヵ国の守護職と九州探題職を手に入れ、九州最大の勢力となった。しかし天正6(1578)年の耳川の戦いで島津義久に敗北すると離反者が相次ぎ、島津家の北上で滅亡寸前にまで追いやられたが、秀吉の侵攻で義統に豊後一国が安堵された。朝鮮の役で改易となっている。
|