水ヶ江分家の初代となった家兼は少弐家の被官となって享禄3(1530)年の田手畷の戦いなどで活躍したが、家兼の勢力拡大を快く思わない少弐家臣・馬場頼周の策謀によって一族の大半を殺害されてしまった。だが、鍋島一党の協力で家兼は頼周を討って再興を果たした。
家兼の曾孫・隆信は本家の胤栄が没すると、家中の支持を得て当主となった。天文20(1551)年、土橋栄益の謀反で佐嘉城を奪われ回復に3年を要したが、永禄2(1559)年少弐家が滅び、元亀元(1570)年の今山の戦いでは大友勢を破った。その後、大友家の弱体化に乗じて所領を豊前にまで広げ、五州二島の太守となった。しかしそれも束の間、隆信は天正12(1584)年に沖田畷で島津勢に敗れ討死してしまった。九州征伐後、鍋島直茂の手腕で所領は安堵された。
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