11代当主・忠昌は衰えた島津家の勢力の回復に努めたが、領内の度重なる反乱を苦として自害した。
忠昌の長男・忠治は20歳で12代当主となったが27歳で死去し、後を継いだ忠昌の次男・忠隆も若くして亡くなった。
その後、忠昌の三男・勝久が14代当主となったが、この頃には本家の衰えはいよいよ覆い難いものとなっていた。勝久は薩州家・実久より家督譲渡を強要されたが断り、これに対抗するため大永6(1526)年、伊作家・忠良の子・貴久に家督を譲った。忠良は実久を破って島津家中の争いを終結させ、貴久は蒲生氏、菱刈氏を滅ぼして薩摩を統一した。
義久が当主となった後の元亀3(1572)年に義弘は木崎原で伊東勢を破り、翌年には肝付氏を服属させた。天正6(1578)年大友勢を耳川で破り、天正9(1581)年には相良氏を降し、さらに天正12(1584)年龍造寺勢を沖田畷で破った。こうして九州統一はほぼ成ったが、大友宗麟が援助を要請した豊臣秀吉と戦うことになった。天正14(1586)年の秀吉軍の侵攻は家久の活躍で撃退したが、翌年の秀吉本隊との戦いに敗れ、薩摩、大隅と日向の一部を安堵された。
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