島津宗家8代当主・久豊の子・用久を祖とする。
成久の娘は島津忠良に嫁いだ。
忠興は島津久逸と戦い、これを討ち取っている。
実久は姉が本家当主・勝久に嫁いでいる関係から、島津家の実権を掌握しようとし、勝久に守護職の譲渡を要求した。これに対し勝久は伊作家の忠良を頼ったため、実久は忠良と戦うことになった。実久は一時、鹿児島を奪うほどの威勢を示したが、天文8(1539)年加世田城を落とされると形成不利となり降伏した。
義虎は父・実久の意に反して島津義久に仕え、義久の長女を娶った。水俣攻めでは先鋒を務めている。
忠辰も父・義虎に引き続いて義久に仕えた。忠辰は朝鮮出兵に際して、義弘から独立した陣立の許可を秀吉に求めたが一蹴された。これを不服とした忠辰は渡海後進軍しなかったため改易された。 |