001.島津勝久 1503〜1573。島津家14代当主。忠昌の三男。幼名は宮房 丸。通称は又八郎、八郎左衛門尉。諱は忠兼、勝久。15 19年、兄・忠隆の早世により家督を継いだ。本家が衰え ていたために妹婿の薩州島津家・実久を頼ったが、実久 が守護職を強要したため、相州島津家・忠良に国政を委 ね、家督をその子・貴久に譲って隠居した。のち、実久 に唆されて鹿児島に復帰したが、川上昌久を自刃させた ために実久によって追放された。祁答院重武を頼って一 時は鹿児島を奪い返したが、谷山で実久軍と戦って敗退 した。以後、各地を流浪し最期は豊後沖之浜で没した。 |
002.島津忠良 1493〜1568。伊作島津家10代当主。善久の嫡男。幼名は 菊三郎。通称は三郎左衛門尉。号は日新斎。父の死後、 母が相州家・運久に再嫁し、伊作、相州両家の家督を併 せて相続した。1526年、薩州家・実久に圧迫を受けた本 家・勝久の要請で、嫡男・貴久を勝久の養子とし、本家 当主に据えることに成功した。一度は実久に鹿児島を陥 れられたが、伊作を拠点として実久方の諸将を次々と降 し、1539年には南薩摩の実久方の拠点・加世田城を陥落 させ、実久を降伏させた。その後は家訓の『いろは歌』 を創作するなどして、一族家臣の教育に取り組んでいる。 |
003.島津貴久 1514〜1571。島津家15代当主。忠良の長男。幼名は虎寿 丸。通称は又三郎。号は伯囿。1526年、島津家14代当 主・勝久の養子となり、家督を継いだ。父・忠良ととも に敵対する薩州家・実久と戦い、降伏させた。1549年、 加治木の肝付兼演を黒川崎の戦いで破って降し、1554年 には一門を総動員し祁答院良重が守る難攻不落の岩剣城 を陥落させた。1566年、家督を嫡男・義久に譲り、1571 年、没した。海外交易に積極的で、琉球と修好を結び、 ザビエルにはキリスト教の布教を許したが、家臣の反対 が激しかったため貿易船の数が少なくなると禁止した。 |
004.島津義久 1533〜1611。島津家16代当主。貴久の嫡男。幼名は虎寿 丸。通称は又三郎。諱は忠良、義辰、義久。号は龍伯。 1566年に家督を相続し、菱刈氏、入来院氏、東郷氏、肝 付氏ら薩摩、大隅の諸氏を降し、1576年には日向の伊東 義祐を駆逐した。1578年に大友宗麟が大軍を率いて南下 すると高城周辺で迎え撃って戦い、勝利した。その後も 肥後の相良氏、肥前の龍造寺氏を降して九州平定の目前 まで迫るが、豊臣秀吉の征伐軍に降り薩摩、大隅と日向 諸県郡を安堵された。家督を甥・忠恒に譲った後も権力 を持ち、関ヶ原の戦いの戦後処理では本領安堵を得た。 |
005.島津義弘 1535〜1619。島津家17代当主。貴久の次男。通称は又四 郎。諱は忠平、義珍、義弘。号は惟新。1572年、300人 の軍勢で3000人の伊東軍を木崎原において撃破し、勇名 を馳せた。兄・義久に従い、肥後方面の計略を担当した。 豊臣秀吉の九州征伐に対し徹底抗戦の構えを見せたが、 義久の説得で降伏した。豊臣政権に対しては協力的で、 朝鮮に出陣して泗川の戦いでは明の大軍を撃破し、露梁 津の海戦では李舜臣を戦死させた。関ヶ原の戦いでは西 軍に味方して、小早川秀秋の寝返りの後に敵の大軍の中 を中央突破する離れ業をやってのけ、薩摩へ帰国した。 |
006.島津久保 1573〜1593。島津義弘の次男。幼名は万寿丸。通称は又 一郎。義弘の長男・鶴寿丸が早世したため嫡男となった。 豊臣秀吉の九州征伐後、日向諸県郡に所領を与えられた。 伯父・義久に男子がいなかったため、島津家の世継とな るために、17歳で義久の末娘・亀寿と結婚した。1590年、 小田原征伐に参加し、1592年には父・義弘とともに朝鮮 半島へ渡った。島津家の次期家督として申し分の無い働 きを見せたが、朝鮮半島での長滞陣が響いて病に侵され、 1593年、巨済島において21歳の若さで病死した。急遽、 弟・忠恒が代役に立てられたが、領内に混乱を招いた。 |
007.島津忠恒 1576〜1638。島津家18代当主。義弘の三男。幼名は米菊 丸。通称は又八郎。1593年、兄・久保が朝鮮巨済島で病 死すると、その未亡人(義久の末娘・亀寿)を娶り世継 となった。久保に代わって朝鮮へ渡海し、1598年の泗川 の戦いで活躍した。1599年、豊臣政権より厚遇されてい た老中・伊集院忠棟を殺害し、1602年にはその子・忠真 をも殺害した。大名権力強化のため前当主・義久の影響 力排除に努め、琉球への出兵を強行し、義久の側近・平 田増宗を謀反の嫌疑で殺害した。義久の死後、側室を置 いて32人の子を儲けるなどして、薩摩藩の礎を築いた。 |
008.島津歳久 1537〜1592。日置島津家初代当主。貴久の三男。通称は 又六郎。号は晴蓑。1554年、岩剣城の戦いで初陣した翌 年、北村城の戦いで重傷を負った。1568年には堂ヶ崎の 戦いで窮地に陥った兄・義弘を救った。禰寝氏、肝付氏 らとの戦いでも活躍し、薩摩祁答院を領した。1587年、 豊臣秀吉の九州征伐に際して秀吉に拝謁せず、家臣・本 田四郎左衛門に命じて領内を通過する秀吉の駕篭に矢を 射掛けさせた。この時には何の咎めも無かったが、1592 年に梅北国兼が反乱を起こすと、その黒幕であると疑わ れ、秀吉の命を受けた兄・義久によって攻め滅ぼされた。 |
009.島津忠隣 1569〜1587。日置島津家2代当主。薩州家・義虎の次男。 通称は三郎次郎。貴久の三男・歳久の娘を娶り養子とな った。筑後鷹取城攻め、筑前岩屋城攻めに功があった。 根白坂の戦いで島津家久に従い先陣で戦ったが討死した。 |
010.島津家久 1547〜1587。永吉島津家初代当主。貴久の四男。通称は 又七郎。1561年、15歳で廻城の戦いで初陣し、工藤隠岐 守を討ち取った。日向の伊東義祐の駆逐後、佐土原城主 となり、耳川の戦いでは山田有信らとともに高城を守っ た。1584年、有馬晴信が龍造寺隆信の圧迫を受け救援を 求めてくると島原半島へ渡海し、龍造寺軍を迎え撃って 破り、隆信の首級を挙げた。1586年、豊臣秀吉の九州征 伐軍を戸次川の戦いで破り、十河存保、長宗我部信親を 討ち取ったが、豊臣秀長の軍勢と根白坂で戦って敗れた。 秀長に拝謁して降伏したが、その後間もなく病死した。 |
011.島津豊久 1570〜1600。永吉島津家2代当主。家久の嫡男。通称は 又七郎。諱は忠豊、豊久。15歳の時、沖田畷の戦いで初 陣を飾る。豊臣秀吉の九州征伐後、父・家久が急死する と日向佐土原城主となった。母を伴い京へ赴き、1590年 の小田原征伐に参陣した。伯父・義弘に従って2度の朝 鮮出兵に参加し、慶長の役の泗川の戦いでは明の大軍を 相手に奮戦した。伊集院忠真が起こした庄内の乱では日 向に戻って鎮圧のため戦った。関ヶ原の戦いでも伯父・ 義弘に従って戦い、31歳の若さで戦死した。所領の佐土 原は徳川家康に接収されたが、のち島津以久が入った。 |
012.島津忠将 1520〜1561。相州島津家4代当主。忠良の次男。通称は 又四郎。諱は政久、忠将。1539年の加世田城攻めで搦め 手の大将を務め、敵将・市来某を討ち取った。1548年、 本田薫親を攻略して大隅清水城主となり、大隅方面の計 略を担当した。蒲生攻めでは先鋒を務め活躍した。1561 年、肝付兼続が廻久元の廻城を攻め落とすと、兄・貴久 とともに出陣した。竹原山の陣が敵の攻撃で窮すると、 家老・町田忠林の諫止を聞かずに救援に向かい、敵に囲 まれ乱戦の中で討ち死にした。その後、大隅の抑えとし て義弘を飫肥から移したため飫肥は奪われてしまった。 |
013.島津以久 1550〜1610。垂水島津家2代当主。日向佐土原藩初代藩 主。忠将の嫡男。幼名は尭仁房。通称は又四郎。諱は征 久、以久。官職は右馬頭。1573年、降伏したばかりの禰 寝重長救援のため島津忠長とともに大隅半島へ渡り、肝 付勢と戦って撃退した。以後、水俣城の戦いなどで軍功 を重ね、大隅の清水、上井、福山などを領有した。九州 征伐後には豊臣秀吉から直接知行を受けた御朱印衆のひ とりとなった。太閤検地で種子島、屋久島、永良部群島 へ転封され、1599年には垂水へ転封となった。関ヶ原の 戦いの後、薩摩藩の支藩・佐土原藩の初代藩主となった。 |
014.島津彰久 1567〜1594。垂水島津家3代当主。以久の嫡男。通称は 又四郎、守右衛門。島津義久の次女・新城を娶り、長男・ 忠仍(久信)を儲けた。沖田畷の戦いに従軍して軍功を あげた。文禄の役では忠恒に従って渡海したが、巨済島 で病死した。 |
015.島津尚久 1531〜1562。宮之城島津家初代当主。忠良の三男。幼名 は鎌安丸。通称は又五郎。官職は左兵衛尉。薩摩鹿籠領 主。1554年の岩剣城攻めをはじめ、蒲生攻めの諸戦で活 躍した。1559年、飫肥城の島津忠親を救援し伊東義祐と 戦うが危機に陥り、春成久正が身代わりとなって討死し て漸く危機を脱した。 |
016.島津忠長 1551〜1610。宮之城島津家2代当主。尚久の嫡男。幼名 は鎌菊丸。通称は又五郎。号は紹益。官職は図書頭。伯 父・忠将の娘を娶った。肝付氏攻めで活躍し、大隅串良 地頭となった。伊東氏、大友氏との戦いでも軍功をあげ、 国老となった。京に歳久の首が晒されたときは、これを 奪って洛中の浄福寺に葬った。文禄、慶長の役では義弘 に従って渡海し、泗川の戦いで縦横無尽の働きを見せた。 関ヶ原の戦い後、肥後との国境である出水を守備し、祁 答院、宮之城の領主となった。1602年には義久の使者と して徳川家康に謁し、本領安堵の起請文をとりつけた。 |
017.桂忠詮 1557〜1615。島津家臣。忠俊の子。通称は又十郎、兵衛 尉。諱は忠ムとも。官職は山城守。1581年、平佐地頭と して水俣城攻めに参加した。九州征伐の際は平佐城に籠 城し、秀吉軍に頑強に抵抗した。朝鮮出兵前には梅北国 兼の反乱軍に加わったが許された。文禄、慶長の役では 義弘に従って朝鮮に渡海し、軍功をあげた。関ヶ原の戦 いにも参陣し、島津義弘を逃がすために戦って帰国を果 たし、頴娃久秀、山田有栄とともに知行200石の印判を 得た。高山地頭となって家久にも仕え、高山で病死した。 |
018.喜入季久 1532〜1588。島津家臣。島津忠俊の嫡男。通称は三郎四 郎。諱ははじめ忠賢。官職は式部大夫、摂津介、摂津守。 号は休宅。薩摩喜入領主。所領・喜入の地名をとり、苗 字を島津から喜入に改めた。横川攻めで活躍した。1569 年、島津義久の老中となり、菱刈郡花北村を領した。15 70年、足利義昭の将軍就任を祝するために上洛した。高 原城の戦い、水俣城の戦い、筑紫攻めなどに従軍した軍 功により鹿籠を加増されて鹿籠山之城を居城とし、嫡子・ 久通を喜入に置いた。鹿籠で病死した。 |
019.島津実久 1510〜????。薩州島津家5代当主。忠興の嫡男。通称は 八郎左衛門尉。島津忠昌の娘を娶った。義兄・勝久に対 して宗家当主の地位を要求したが、勝久は拒否して伊作 島津家・忠良に国政を委ねたため、忠良と敵対する。15 26年、山田、百次を占領し、百次城を山崎成知に守らせ た。翌年、忠良が加治木、帖佐へ出陣した隙に伊集院一 宇治城、日置城、谷山城を攻略し、鹿児島をも陥れた。 しかし、1533年より徐々に所領を奪い返され、1537年に は鹿児島を奪われて加世田へ退いた。1539年、加世田城 をも忠良に落とされて和睦し、本領の出水へ逼塞した。 |
020.島津義虎 1536〜1585。薩州島津家6代当主。実久の嫡男。通称は 又太郎、三郎太郎、八郎左衛門尉。諱は他に晴久、陽久、 義利、義俊。薩摩出水領主。島津義久の娘を娶った。15 53年に家督を継いだ。1568年、相良・菱刈連合軍が攻め てきたとき、詰めていた羽月城から本領の出水へ退却し たため、島津義久の怒りを買った。1569年、水引などを 与えられた。1581年の水俣城の戦いでは先鋒を務め、相 良義陽を降伏させた。沖田畷の戦いでも軍功があった。 |
021.島津忠辰 1565〜1593。薩州島津家7代当主。義虎の嫡男。通称は 又太郎。諱は他に忠永。薩摩出水領主。九州征伐の際、 八代南方の高田を守っていたが、有馬晴信が秀吉に降っ たため出水に退却した。秀吉が薩摩に入るといち早く降 伏し本領を安堵された。文禄の役に際して、宗家とは陣 立を別にしてくれるよう秀吉に直訴するが叶わなかった。 やむなく島津義弘に従って釜山まで行くが、病と称して 進軍しなかった。このことが秀吉の怒りを買い、小西行 長に預けられて改易された。没収された所領は、細川幽 斎と石田三成に分与された。加徳島で病死したという。 |
022.吉利忠澄 生没年不詳。島津家臣。吉利家4代当主。島津久定の子。 官職は下総守。島津貴久の命で1558年に苗字を島津から 吉利に改めた。高原攻め、耳川の戦いなどに参軍した。 1582年、新納忠元、伊集院久宣とともに肥後日比良を攻 め、そのまま肥後に在陣して隈本当番を務めた。北上戦 では、山田有信、上井覚兼らとともに、日向口担当の島 津家久の軍勢に加わった。 |
023.寺山久兼 生没年不詳。島津家臣。直久の子。大隅市成地頭。慶長 の役では島津義弘に従って朝鮮へ渡海した。晋州[チンジュ] 城に陣を構える明軍に対抗するため新たに築かれた望津 [マンジン]城を守った。のち、義弘の命により望津城を放 棄し、泗川の戦いでは明軍の背後に回って敵陣を撹乱す る活躍を見せた。庄内の乱でも活躍し、乱後に恒吉地頭 となった。 |
024.島津忠親 1504〜1571。豊州島津家5代当主。島津忠広の次男とす る説と、北郷忠相の長男で島津忠広の養子とする説があ る。通称は二郎左衛門尉。号は泰心斎。官職は尾張守、 豊後守。飫肥領主。島津貴久に従い、北郷時久とともに 伊東氏、肝付氏の攻撃を防いだ。1559年、防衛が困難と なったため、大隅末吉を貴久に、日向梅北を北郷時久に 与えた。1560年、貴久の次男・義弘を養子とし守りを固 めた。1561年、大隅廻城の戦いで島津忠将が戦死すると、 翌年に義弘は貴久に呼び戻されて飫肥を退去したため、 伊東義祐の攻撃を受けて飫肥を失った。都城で没した。 |