島津忠良 | 明応2(1493)〜永禄11(1568) |
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明応2(1493)年、忠良は島津家の分家である伊作家の嫡男・善久の子として生を受けた。幼名は菊三郎。母は新納是久の女で常盤といい、既に2女を生んでいた。善久と常盤の政略結婚が成立した後も、善久の父・久逸と新納是久は反目し合っていたが忠良誕生の頃には争いも無くなり、伊作家は平穏を迎えていた。 しかし、翌年、善久が配下に殺される事件が起こると、その平穏は破られた。伊作家以上の勢威を誇る薩州家の忠興が攻めてきたのである。当主・久逸は伊作城を討って出たが敢え無く戦死した。この状況を見た常盤は自ら出陣し、全兵力で忠興の本営を突いて壊走させることに成功した。そして、いずれ家督を継ぐべき幼い菊三郎の母・常盤が伊作城主となった。 当主と嫡男がいなくなった伊作城は、領土切り取りを目論む諸豪族の攻撃にさらされた。その度に常盤は伊作家と友好関係にある総州家の運久に援軍を求め、運久も毎度兵を送った。その誼で常盤は運久に再嫁し、両家の友好はますます深まった。やがて、菊三郎は元服して名を忠良と改め、永正9(1512)年、図らずも伊作、総州両家の家督を併せて相続することとなった。 永正9(1512)年、忠良に長男・虎寿丸が誕生した。この頃の島津本家当主は勝久であったが、本家自体は力を失い、勝久の義兄の実久(忠興の子)に輔けられていた。しかし、実久が薩摩守護職の譲渡を強要してきたため、勝久は忠良を頼った。忠良は虎寿丸を勝久の養子とし、守護職も譲渡するとの条件で勝久に代わって実久に戦いを挑んだのである。大永6(1526)年11月27日、虎寿丸は元服して名を又三郎貴久と改めた。翌年には勝久が隠居し、忠良も法体となり愚谷軒日新斎と号した。 だが、勝久は実久に説得され、忠良・貴久の居城・清水城を襲った。忠良らは清水城を脱出し、田布施に戻った。この時点で薩州家実久の勢力は忠良の勢力より大きかったため、忠良は清水城を攻めず、伊作城を回復した。 天文2(1533)年より、忠良は所領を拡大し始めた。まず、日置南郷城攻めを行うがこの戦いで忠良は自らの軍勢を城主・桑波田孫六の軍勢と偽ってまんまと入城し即日陥落させている。同年、日置城の山田有親を降し、天文5(1536)年には伊集院一宇治城の町田久用を破った後、その支城を一気に平らげた。忠良は一宇治城を本城としている。天文7(1538)年、忠良は満を持して実久方の加世田別府城を攻め、翌年元旦落とした。実久は尚も抵抗を続けたが、残った城も次々と落とされ、弟・忠辰も斬られるに及んで遂に降伏した。 島津家の統一に成功した忠良は後事を貴久に任せ、後進の指導に専念した。天文14(1545)年、忠良は家訓の『いろは歌』を創作した。これは武士としての心構えや臣下の結束の大切さを歌にしたものであり、後世にまで影響を及ぼしている。 |
長寿院盛淳 | 天文16(1547)〜慶長5(1600) |
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畠山頼国の子。頼国は天文年間に京から薩摩に下向し、島津氏の客分となった。 盛淳は3歳の時から紀州高野山、根来寺で修行したのち薩摩へ戻り鹿児島安養院の住持となったが、島津義久の要請を受けて島津家臣となった。天正14(1586)年、義久の奏者として豊臣家へ使者となり、翌年義久が秀吉に降伏したときはともに秀吉の前に伺候した。天正16(1588)年には、義久に従い石田三成と会見した。この年より義久の家老となっている。 慶長5(1600)年、盛淳は上方に僅かな兵を率いて駐留している島津義弘を援助するため、蒲生衆、帖佐衆70人を率いて薩摩を発し、関ヶ原本戦の2日前(9月13日)に義弘軍と合流した。9月15日、小早川秀秋の寝返りによって西軍が崩れると、義弘は全軍に前進退却を命じた。島津勢は福島正則勢、徳川家康本陣をかすめて伊勢街道を南下した。そこに井伊直政、本多忠勝、松平忠吉らが追撃してきたため、島津豊久が迎え撃ち玉砕した。盛淳は烏頭坂を下ったのち、義弘が秀吉から拝領した陣羽織を着て迎え撃ち義弘の身代わりとなって果てた。この盛淳らの働きによって義弘は薩摩まで帰還することができたのである。 尚、子孫は阿多の領主となり、阿多姓を称している。 |